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バーニーズがやってきた!

バーニーズ・マウンテン・ドッグの子犬がわが家にやってきました!バーニーズと暮らす日々を写真中心にご紹介します。

丘の上の大銀杏

2009年12月9日(水)

今日も日差しがあたたかい大阪です。
トランプは近くの大きな公園へ散歩に出かけました。
花壇では寒さに強い色とりどりの花が咲いています。

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今朝も日課のウォーキングです。

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ウォーキングの後半、ボーダー・コリーのバロン君にお会いできました。

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バロン君はいつお会いしてもお元気ですね。

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トランプは大きな公園の帰り道、仕事場近くの小さな公園に寄り道しました。
この公園には小さな丘があって、その上に大きなイチョウの木があります。

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若木は早々と黄葉して葉を落としましたが、この大木は12月に入ってみごとに黄葉しました。
(イチョウの根元にトランプがいます。)

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トランプも黄金色に染まっています。

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《蛇 足》

このイチョウがある小さな丘は、実は...
『酒君塚(さけぎみづか)古墳』とよばれる古墳です。

2002年に行われた発掘調査によって円筒埴輪(えんとうはにわ)なども出土し、単なる伝承ではなくその地下には4世紀末ごろの前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)の跡が存在していることが分かりました。
(残念ながら、現在の丘は当時の古墳が残ったものではなく、後に作られたもののようです。)

この、今では酒君(さけぎみ、あるいは、さけのきみ)として知られている方は朝鮮半島の百済(くだら)出身の渡来人の豪族で、その方のことは日本書紀、仁徳(にんとく)天皇の43年の条にも記載されています。

そのエピソードは次のようなものです。

依網屯倉阿弭古(よさみのみやけあびこ)という人が、珍しい鳥を捕えて仁徳天皇に献上したところ、天皇は酒君にその鳥をお見せになりました。

すると、酒君は「これは、百済(くだら)には多くいる倶知(ぐち)という鳥でして、飼い慣らすと他の鳥などを捕えることができるのです。」と答えました。

この「倶知という鳥」とは鷹のことです。
そこで、仁徳天皇は酒君にこの鳥を飼うように命じました。酒君は、鷹の足に『韋緡/イビン/おしかわのあしお(なめし皮のひも)』を、尾羽根に鈴をつけ、他の鳥を捕らえる訓練をして、再び仁徳天皇に献上しました。

仁徳天皇はこれをお喜びになり、百舌鳥野(もずの)で鷹を用いた狩をなさって、数十羽の雉(きじ)をおとりになりました。


そしてそれ以後、酒君が鷹を飼育したことをきっかけに、鷹甘部(たかかいべ)という役職が定められ、この地を鷹甘邑(たかかいのむら)とよぶようになりました。

これが後に鷹飼村(たかかいむら)となり、鷹合(たかあい)という現在の地名の元になりました。


「ちなみに...」その1
依網屯倉阿弭古(よさみのみやけあびこ)という方の名前をとって、今の「我孫子(あびこ)」という地名ができました。

「ちなみに...」その2
日本書紀、仁徳天皇41年の条によると、酒君という方は百済の王様のお孫さんだったのですが、日本から紀角(きのつの)という人が百済に遣わされたとき、紀角に無礼をはたらいたために捕らえられて日本に送られた人です。
そしてその後、罪をゆるされて日本に定住した、いわゆる「渡来人」です。

「ちなみに...」その3
百舌鳥野(もずの)は仁徳天皇ゆかりの場所で、「仁徳天皇陵」とされる世界最大の墳墓「大仙古墳(だいせんこふん)」があります。

「ちなみに...」その4
大阪市の南部には、あちらこちらに「百済(くだら)」という地名が残っています。
酒君塚のすぐそばには「南百済小学校」がありますし、この地域を流れている、「高麗(こま)」からその名ができたかもしれない駒川(こまがわ)には「百済大橋」と名づけられた橋がかかっています。
また、他の地域の方には絶対に読めない難読地名の代表、「杭全(くまた)」も「くだら」がなまったもののようです。大昔、この土地を治めていたのが東北地方の蝦夷(えぞ)を平定した征夷大将軍、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の次男である坂上広野麿(さかのうえのひろのまろ)でした。
坂上家の祖先は百済からの渡来人であった阿知使主(あちのおみ)で、坂上広野麿の子孫が杭全神社を建立したといわれています。
杭全の交差点の東には、以前は百済川と呼ばれていた平野川にかかる百済橋があり、JRの百済駅もあります。

「ちなみに...」その5
大阪の南東部には「平野(ひらの)」という地名がありますが、これは坂上広野麿(さかのうえのひろのまろ)にちなんだもののようです。


考えてみると、大阪市の中心部は、7世紀に難波長柄豊碕〔埼〕宮(なにわながらのとよさきのみや)が建設されて、大化の改新もその地で行われた日本の首都であり、港湾都市でしたが、淀川などの土砂の堆積によって港としての機能を失ってしまいます。そして、石山本願寺(いしやまほんがんじ)がつくられ、豊臣秀吉が大阪城を築城して「再開発」されるまで、長いあいだ「うち捨てられし」土地でした。

しかし、大阪市の南端にあたるこのあたりは、おそらくは酒君の時代から現在にいたるまで、絶えることなく人々の暮らしが続いてきたのではないかと思います。

この大イチョウの樹齢がどれくらいのものか分かりませんが、古墳の跡に銀杏(ぎんなん)から芽生えたイチョウの木は、その周囲で暮らす人々の営みを見守ってきたにちがいありません。

また、明日もトランプを連れて大イチョウの下で黄金色に染まってみようと思います。

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